賃貸相談
月刊不動産2012年3月号掲載
賃貸借契約の解除と費用償還請求
弁護士 江口 正夫(海谷・江口法律事務所)
Q
借家人の賃料不払いを理由に建物賃貸借契約を解除したところ、同借家人から貸室内のトイレを温水洗浄型便座にしたので、その費用を支払ってほしいと要求されました。応ずる必要があるのでしょうか。
A※記事の内容は、掲載当時の法令・情報に基づいているため、最新法令・情報のご確認をお願いいたします。
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1 有益費償還請求権
賃借人の賃料不払を理由に賃貸借契約が有効に解除された場合には、賃貸借契約が終了しますので、賃借人は貸室から退去しなければならないことはいうまでもありません。
このケースでは、賃借人は、建物から退去すること自体は争っておらず、建物を明け渡すに当たって、従前の貸室内のトイレを温水洗浄型便座に変更したのでその費用を支払ってほしいと請求しています。
賃借人の意図するところは、賃貸人がこの賃借人に賃貸した貸室内のトイレは温水洗浄型便座ではなかったところ、賃借人が自分の費用で快適な温水型の洗浄便座に改良したことによって貸室の価値が上がり、賃貸人はその分の利益を得ているので、これを精算して欲しいということにあると思われます。
つまり、この賃借人は、賃貸人に対し、民法608条2項に定める有益費償還請求権を行使しているものと考えられます。
(1) 有益費償還請求権の要件
民法608条2項は、「賃借人が賃借物について有益費を支出したときは、賃貸人は、賃貸借の終了の時に、第196条第2項の規定に従い、その償還をしなければならない。ただし、裁判所は、賃貸人の請求により、その償還について相当の期限を許与することができる。」と定めています。
(2) 有益費の定義
一般的に、有益費とは、目的物の価値を増加させるために支出された費用のことをいいますが、第1に、価値の増加は賃借人が主観的にそう考えるだけでは足りず、客観的にみて目的物の価格が増加したといえることが必要とされています。第2に、この価格の増加は現存していることが必要です(民法608 条2項による同法196 条2項の準用)。なぜなら、民法が賃借人に有益費償還請求権を認めている趣旨は、賃借人の費用負担で賃貸借の目的物(貸室)の価格が上昇しているときは、そのままでは価値の増加分を賃貸人が不当利得することとなるため、これを解消する必要があると考えられているからです。
不当利得というためには、賃借人の支出した費用により貸室の価値が増加しており、その価値の増加が現存していなければならないということになります。
また、有益費償還請求権が認められた趣旨が上記のように賃貸目的物の価格が増加したことにあるとすると、有益費償還請求の場合は、いわゆる造作買取請求権の場合とは異なり、有益費を支出することについて賃貸人の同意を得ていることは要件ではないことになります。したがって、客観的に賃貸目的物の価値が増加している場合には、賃貸人が同意していない場合であっても、賃借人は賃貸人に対し、有益費償還請求権を行使することができると解されています。
2 本件での有益費償還請求権の成否
上記の有益費の定義からすると、一般的に有益費に該当するものとして、風呂場をタイル貼りにした場合や、トタン屋根を瓦葺きの屋根に変更した費用などが挙げられます。トイレを温水洗浄型便座に変更したということは、貸室の価値を増加させているものということができますし、その価値の増加は、特段の事情がない限り、現存していると考えられます。したがって、賃借人が支出した費用は有益費に該当するものと考えられます。ただし、有益費として償還請求が認められるのは、賃借人が現実に支出した金額または目的物の価格の増加額のいずれかとされており、その選択は賃貸人に任されています。
問題は、本件の賃借人は、賃料の支払債務を履行せず、契約違反を理由に賃貸借契約を解除されていることです。このように、債務不履行により賃貸借契約を解除された賃借人に対しても、賃貸人は有益費償還義務を負うのかということが問題となります。
この点については、有益費償還請求権が賃借人に認められている趣旨から考えることになります。有益費償還請求権は、上記のとおり、賃借人の支出した有益費によって、賃貸目的物の価格が増加したままでは賃貸人が不当に利得をすることになり、これを返還するのは当然であるとの考え方に基づいていることからすると、賃貸借契約が期間の満了等により正常に終了した場合に限らず、賃借人の賃料支払債務の不履行という賃借人の違法行為により終了した場合であっても有益費償還請求権の行使は可能であると解されていますので、注意が必要です。