賃貸相談
月刊不動産2010年10月号掲載
原状回復の未履行と建物の明渡し
弁護士 江口 正夫(海谷・江口法律事務所)
Q
契約終了後の貸室を点検したところ、壁の汚損が激しく畳やクロスには煙草の焼け焦げ跡等があり、このままでは人に貸すことができません。明渡しを拒否して家賃の支払を請求できるでしょうか。
A※記事の内容は、掲載当時の法令・情報に基づいているため、最新法令・情報のご確認をお願いいたします。
-
1.借家人の原状回復義務
建物賃貸借契約が終了した場合に、借家人が建物をどのような状態にして賃貸人に返還すべきかについては民法には直接の定めはありません。しかし、賃借人は賃貸人の建物を使用収益した後にこれを返還するのですから、借りた物を返す以上は、賃借人が設置した工作物等はすべて撤去し、建物を原状に回復して明け渡す義務があるといわれています。これを賃借人の「原状回復義務」といいます。「原状」とは「元の状態」を意味する言葉ですので、賃借人は建物を元の状態に戻して返還する必要があるわけです。
もっとも、賃借人は、法律上は、建物を賃貸借契約を締結した当時と全く同一の状態に戻す義務を負うわけではありません。契約で定めた目的に従い、通常の用法に従って使用した結果生ずる損耗(これを「通常損耗」といいます)については、これを賃借人の原状回復義務に含めることについての有効な特約が存しない限りは、そのままの状態で明け渡すことで足りると解されています。したがって、有効な特約が存しない限りは、賃借人は、自ら設置した工作物を撤去するほか、通常損耗とはいえない賃借人の善管注意義務違反又は通常とはいえない使用方法により発生した損耗(これを「特別損耗」といいます)を元の状態に戻す義務、すなわち原状回復義務を負担しているものです。
本件では、畳やクロスには煙草の焼け焦げ跡等があるというものですから、特別損耗が生じており、借家人がこれらを修復すべき原状回復義務を負っていることは明らかといえます。
2.原状回復義務の履行と明渡し義務との関係
借家人は、賃貸借の終了に伴い、貸室を原状に回復して賃貸人に明け渡す義務を負っています。本件では少なくとも畳やクロスの煙草の焼け焦げ跡が存することは特別損耗と認められ、賃借人はこれらを修復すべき義務を負っています。賃借人が、これらの原状回復義務を履行することなく、建物を賃貸人に返還すると申し出た場合、賃貸人は、原状回復義務が履行されていないことを理由として、建物の明渡しを受けることを拒めるのでしょうか。
賃貸人の立場からすると、畳やクロスには煙草の焼け焦げ跡等が残されたままでは他人に賃貸することができません。賃借人が原状回復を行わないまま建物を返還しようとする行為は、賃借人の義務違反により他人に貸せないままの状態で建物を明け渡そうとするものですから、債務の本旨に従った明渡し義務の履行とはいえないのではないかといいたくなるところです。
(1) 建物明渡し義務の内容
しかし、賃貸借契約における建物明渡し義務とは、賃貸対象物である特定の建物を明け渡すことを内容とする義務ですから、契約終了時に、当該建物を、契約終了時点のあるがままの状態で明け渡せば、明渡し義務は履行したことになるのです。
賃借人は原状回復義務を履行していないではないかということについては、それは賃借人に原状回復義務違反があるということであって、それと明渡し義務の履行とは別個の問題であると考えられています。
したがって、建物が毀損(きそん)していたとしても、当該建物を損傷が生じたまの状態で賃貸人に引き渡せば、賃借人の建物明渡し義務は履行されたことになります。賃貸人は、原状回復が履行されていないことを理由としては、建物の明渡しを受けることを拒否することはできないのです。
(2) 原状回復義務の不履行への対応
賃貸人は、畳やクロスには煙草の焼け焦げ跡等が残されたままで建物の明渡しを受けた場合、明渡し義務としては履行を受けたことにはなりますが、原状回復義務の履行を受けていないことになります。
このため、賃貸人は、賃借人に対し、原状回復義務の履行として、畳やクロスの煙草の焼け焦げ跡の修復を請求することができます。賃借人がこれに応じない場合には、賃借人の善管注意義務違反を理由として損害賠償請求をすることができます。これらの補修に必要な期間は貸室を第三者に賃貸できないのですから、社会通念上合理的と認められる範囲内において、賃料相当額の損害金の請求が可能と考えられます。