賃貸相談

月刊不動産2010年7月号掲載

賃貸建物の譲渡と敷金返還請求権

弁護士 江口 正夫(海谷・江口法律事務所)


Q

当社は所有している賃貸ビルのテナント各社から敷金を預かり、敷金の一部にはテナントに融資した銀行の質権が設定されています。当社が賃貸ビルを売却した場合、当社は質権者に敷金を返還すべきでしょうか。

A※記事の内容は、掲載当時の法令・情報に基づいているため、最新法令・情報のご確認をお願いいたします。

  • 1.賃貸建物の所有権と敷金返還債務の帰属

     賃貸人と賃借人との間で建物賃貸借契約を締結する際に、賃借人から賃貸人に対して敷金の預託が行われます。これにより、賃借人は、賃貸人に対して建物の賃料を支払う義務を負うと同時に、賃貸人は賃借人に対し、建物を使用収益させる義務とともに、賃貸借契約が終了した場合には敷金を返還する義務を負うことになります。逆にいえば、賃借人は、賃貸人に対して敷金返還請求権を有していることになります。

    (1) 賃貸建物の譲渡と賃貸借契約の承継の有無

     既にテナントが入居している賃貸建物を第三者に譲渡した場合には、各テナントと賃貸借契約を締結したのは譲渡人である旧所有者であって、建物の譲受人である新所有者はテナントとの間には賃貸借契約を締結した事実がないため、その賃貸借契約がどのように処理されるかという問題を生じます。

     この点については、既に判例理論が確立されています。判例では、対抗要件 (賃借人が引渡しを受けていること)を具備した建物賃貸借については、「賃借建物の所有権取得者は、取得と同時に当然賃貸借を承継するものであって、承継の通知を要しない」(最高裁昭和33年9月18日判決) とされ、賃貸建物の購入者は当然に賃貸借契約を承継するものとされています。

    (2) 賃貸建物の譲渡と敷金返還債務の承継の有無

     通常は、賃貸建物を譲渡する場合は、譲渡人と譲受人との間で建物譲渡に伴い、テナントとの賃貸借契約を譲受人が承継することが合意され、敷金返還債務も建物の譲受人が承継することが合意されていますが、仮にこのような合意がなされることなく賃貸建物が譲渡された場合には、敷金返還債務はどのように処理されるのでしょうか。

     この点についても判例理論が確立されています。判例では、「建物賃貸借契約において、建物の所有権移転に伴い賃貸人たる地位に承継があった場合には、旧賃貸人に差し入れられた敷金は、未払賃料等があればこれに当然充当され、残額についてその権利義務関係が新賃貸人に承継される」(最高裁昭和44年7月17日判決) とされています。つまり、賃貸建物が譲渡されたときは、譲渡時点で、賃借人の旧賃貸人に対する未払賃料があれば、その部分は敷金から控除するものの残額はすべて建物譲受人に承継され、譲渡時点で未払賃料がなければ、敷金の全額が新賃貸人に承継されるということです。

    2.敷金返還請求権に質権が設定されていた場合

     上記の結論は、これまで判例で確立されてきた原則に従ったものですが、賃借人の敷金返還請求権について、賃借人に融資した金融機関が融資金を担保するため質権を設定することがあります。その際、賃貸人が質権設定についての「異議なき承諾」をする旨の承諾書を金融機関に差し入れている場合があります。その後に賃貸人が賃貸建物を譲渡し、譲受人が賃貸人としての地位を引き継いだ事案において、金融機関は、賃貸建物所有権の移転とともに敷金返還債務まで建物の譲受人である新所有者に移転すると、
    ①質権を設定した敷金返還請求権の債務者の資力につき、旧賃貸人には返済能力が十分に見込めるので質権を設定したのに、弁済能力が十分とはいえない者に譲渡された場合には、質権としての価値が毀損されること、
    ②質権者の預り知らないところで勝手に質権の目的である債権(敷金返還請求権)の債務者が変更されるという不都合を生ずるとの事情から、賃貸建物が譲渡された場合でも、質権設定を承諾した旧賃貸人に対して敷金返還請求権が認められるべきであるとの訴えを提起したことがあります。
    金融機関の主張が認められるのであれば、敷返還請求権についての質権設定の承諾は容易にはできないことになります。

     しかし、裁判所は、敷金返還請求権の内容は賃貸借契約終了時に初めて確定するものであって、賃貸人の交代による敷金返還債務の承継は、敷金の性質上当然のことである。賃貸建物の譲渡によって、敷金返還債務も建物譲受人に移行すると解した場合、結果として質権者に不利益となる可能性はなくはないものの、それは敷金返還請求権の性質上当然に予定されているものである。かえって、いったん、質権が設定されると建物所有者が建物を処分することまでも制約することとなりかねないような解釈は相当とはいえない、と判示しています(大阪高裁平成16年7月13日)。結論として賃貸建物を譲渡した後、旧賃貸人が敷金返還債務を負うことはないと考えてよいと思われます。

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