賃貸相談

月刊不動産2007年7月号掲載

賃借人の失火と損害賠償義務

弁護士 江口 正夫(海谷・江口法律事務所)


Q

賃借人の失火によりアパートの一部が火災の被害を受けました。失火責任法では失火者に重過失がない限り損害賠償義務がないとのことですが、通常の過失の場合、賃貸人は損害賠償請求はできないのですか。

A※記事の内容は、掲載当時の法令・情報に基づいているため、最新法令・情報のご確認をお願いいたします。

  • 1.賃借人による失火と失火責任法

    (1) 一般の不法行為責任

     賃借人の失火によりアパートの一部が火災の被害を受けたときは、賃借人の過失によって、賃貸人のアパート用建物の一部が火災による損傷を受けたことになります。民法709条では、「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と定めています。いわゆる不法行為による損害賠償義務といわれるものです。

     不法行為責任が認められるための「故意又は過失」の要件としての「過失」はいわゆる軽過失で足り、重過失は不法行為責任の要件とされてはいません。したがって、民法709条の不法行為の規定だけからすれば、失火による火災を発生させた賃借人は不法行為による損害賠償義務を負うかのように見えます。

    (2) 失火責任法

     しかし、我が国には失火による火災被害の場合には「失火ノ責任ニ関スル法律」という法律が存在しています。この法律はわずか1条しか存しない法律ですが、「民法第七百九条ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但シ失火者ニ重大ナル過失アリタルトキハ此ノ限ニ在ラス」と規定されています。

     すなわち、失火責任法のもとでは、いわゆる失火によって火災を発生させて他人の権利を侵害すれば本来は民法709条の不法行為に該当するはずですが、 709条の規定を適用しないとされているのです。709条の不法行為を理由とする損害賠償の規定を適用しないのですから、賃借人は損害賠償をする義務はないということになります。

     この法律は明治32年に制定されたものですが、我が国では木造住宅が多く、しかも狭い敷地に隣接して建築されていることが多いことから類焼による被害が極めて大きいということが背景にあったといわれています。このような状況にあって、火災の被害を失火者に要求するのは過酷であると考えられ、失火者自身も自分の財産を焼失している場合が多く賠償能力も喪失している場合が少なくないことを考慮したものです。このような立法趣旨からすると、現在の我が国における耐火建築の普及や消防体制の充実等とは合致していないのではないかとも考えられますが、この法律は現在でも生きています。

     したがって、失火責任法のもとでは、失火者に重大な過失が認められない限り、失火者は不法行為による損害賠償義務を負うことはありません。重大な過失とは、通常人に要求される程度の相当な注意をしなくとも、わずかの注意さえすれば容易に有害な結果を予見することができたのに、漫然とこれを見過ごしたようなほとんど故意に近い著しい注意欠如の状態をいうものと解されています。重過失の例としては、天プラ油の入った鍋をガステーブルにかけたまま台所を離れたために、天プラ油から発生した可燃性ガスがバーナーの火に引火し、さらに天プラ油に引火して火災が発生したケースなどが挙げられています。

    2.失火責任法と賃貸人に対する損害賠償責任

     失火責任法は「民法七百九条ハ失火ノ場合ニハ適用セス」と定めており、民法709条の不法行為責任は否定されていますが、債務不履行責任については何も規定していません。この法律は不法行為責任を否定するだけで、債務不履行責任には及ばないものと考えられています。

     アパートの賃借人は、賃貸人に対して、貸室を善良なる管理者の注意をもって保管しなければならない義務を負っています。失火によりアパートの一部を焼失させる被害を与えることは、賃借人としての目的物保管義務と目的物返還義務という債務の履行を怠ったことになります。

     したがって、最高裁の判例は、「『失火ノ責任ニ関スル法律』は債務不履行による損害賠償については適用がなく、失火によって賃借家屋を焼失させた賃借人は、重大な過失がなくても賃借物返還義務の履行不能による責任を免れない」(最高裁昭和30年3月25日判決)としていますので、賃貸人は賃借人に対して火災による損害賠償を請求できることになります。

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