賃貸相談
月刊不動産2008年9月号掲載
家賃の領収証の不発行と家賃の支払拒否
弁護士 江口 正夫(海谷・江口法律事務所)
Q
これまで私の経営するアパートでは家賃の領収証は格別発行していなかったのですが、最近契約した入居者が領収証を発行しないのであれば家賃の支払を拒否すると言っています。支払拒否は認められますか。
A※記事の内容は、掲載当時の法令・情報に基づいているため、最新法令・情報のご確認をお願いいたします。
-
1. 家賃の領収証の発行義務の存否
賃貸アパートにおいて、賃借人が家賃を賃貸人名義の預貯金口座に振り込む場合には、振込控えが領収証と同様の役目を果たすため、格別の領収証を発行しないケースも少なくないと思いますが、賃借人が家賃を賃貸人のもとに持参して支払う場合には、領収証を発行するか、いわゆる通い帳などに家主として押印することがよく行われています。
しかし、民間のアパートの中には、賃料の支払について、格別の領収証を発行しないケースも少なくないようです。
そこで、そもそも家賃が支払われた場合に、賃貸人は家賃の領収証を発行する義務があるのか否かですが、民法第 486 条では「弁済者は弁済受領者に対して受取証書の交付を請求することができる。」と定められています。この規定をアパートの賃貸借契約の場合に当てはめるならば、「弁済者」とは、家賃を弁済する賃借人のことを指し、「弁済受領者」とは家賃の弁済を受領する賃貸人、「受取証書」は家賃の領収証を指していることになります。
したがって、民法では、家賃を支払った賃借人は、家賃の弁済を受けた賃貸人に対して、家賃の受取証書(領収証)の交付を請求することができると定めており、賃貸人は本来、家賃の弁済を受けたときは、賃借人に対して家賃の領収証を発行する義務があることになります。
2. 領収証の発行と家賃の支払義務との関係
(1) 同時履行関係の存否
民法の規定からすれば、賃借人が家賃を支払った場合には、賃貸人は家賃を受け取ったことを証明するための受取証書(領収証)を発行する義務があることは間違いないのですが、それでは賃借人は、「賃貸人の家賃の領収証の発行と引き換えでない限り、家賃を支払わない」と言えるのでしょうか。
この問題は、家賃の支払義務と領収証の発行義務とは「同時履行の関係」(一方の債務が履行されない限り、他方の債務も履行する必要はないとする関係)に立つのかという問題です。
そこで、家賃の受取証書はいつ発行する義務があるかを考えると、もともと家賃の受取証書とは、家賃が実際に支払われた場合に、事後的に弁済の事実を証明するための立証手段にすぎません。このことからすれば、まず家賃を支払うべきであり、家賃が実際に支払われた後に受取証書を発行するという問題になるのであって、家賃の支払義務は領収証の発行義務に先行して履行されるべき義務であるとの考え方もあり得ないわけではなさそうです。
しかし、一般的には、家賃の支払義務と領収証の発行義務とは「同時履行の関係」に立つものと解されています。その理由は、賃借人が家賃の受取証書の交付を受けないまま家賃を弁済した場合には、その後に賃貸人から、当該月の家賃が支払われていないと主張されて当該月の家賃を請求されたときには、賃借人が家賃を支払った事実を立証することが極めて困難になるからだと考えられているからです。
(2) 家賃支払の立証責任
実際に、賃貸人が家賃の受取証書を発行しないまま賃料が支払われていたケースで、賃貸人が6か月以上の家賃滞納があるので賃貸借契約を解除すると主張したのに対し、賃借人側が家賃の滞納はいまだ2か月しかないと反論して紛争になったものもあります。この場合に、家賃を支払った事実を賃借人が立証する必要があるのか、それとも家賃が支払われていない事実を賃貸人が立証するのかですが、家賃の支払については賃借人の側が積極的にいつ、家賃を支払ったかを立証する責任があるとされています。
したがって、家賃支払の立証責任を賃借人が負う以上、賃借人は、家賃の領収証の発行を受けない限り家賃を支払う必要はないと解されているのです。判例においても、賃貸人が賃料の領収証を交付しないため、賃借人が3か月間賃料を支払わなかった場合に、賃貸人が賃料不払を理由に賃貸借契約の解除を求めたところ、家賃の支払と領収証の発行は同時履行関係に立つものとして、賃貸人の契約解除が無効とされています。